ニチレイ75年史
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…他4社第1部遠江製氷冷蔵株式会社(1944・12買収)静岡製氷冷蔵株式会社(1945・1買収)前川製作所)が創業してアンモニア圧縮冷凍機の製作を開始するなど、冷凍機の国産化が進展した。これにより設備費が低減、製氷工場や冷蔵倉庫の新増設の追い風となり、製氷・冷蔵業の成長に寄与した。 1924年に入ると、1923年9月1日に発生した関東大震災の教訓を踏まえた水産冷蔵奨励政策によって、中小の製氷・冷蔵会社の創業ラッシュが起こった。しかしこれに伴い早々に経営難に陥る会社が続出し、日東製氷への合併依頼が殺到した。1919年から1925年にかけて20社を超える製氷・冷蔵会社を合併することになる。だが、急速な合併が金融上の限界を招いたことから、価格競争を回避するために共同販売組合を組織。1926年に東京で東京製氷共同販売組合、大阪で大阪氷業蔵元組合を設立して、価格競争の緩和、氷価の調節を図った。日東製氷は東京・大阪で9割前後という高いシェアを誇ったが、設備の過剰、資本効率の低下から、2~3年後には独占体制が崩壊していくことになる。 なお、英太郎は食料貯蔵問題に関心を寄せ、1923年春から欧米視察の旅に出て、8月に帰国したが、その翌月、大震災に遭遇。英太郎は会社の貯氷庫を開放して、東京市民に氷を提供した。葛原冷蔵も、芝浦冷蔵倉庫に保管してあった冷凍魚を被災者に無償で提供している。 冷蔵庫の重要性を実感した英太郎は、冷蔵事業の拡大にも心を砕いた。鮮魚や生肉、鶏卵、果物、野菜といった食料だけでなく、蚕種、桑、毛皮などの被服類の冷蔵保管に12氷の両社で355tの製氷能力を備えていた。大阪は5社5工場で272t、横浜は2社2工場で89t、名古屋は55t。博多は60t、長崎は110tで、とくに水産氷の需要が多かった下関や博多、長崎などでは、トロール漁業の発展とともに水産氷の供給を増やした。トロール船が過剰となった結果、縮小と整理を余儀なくされたものの、九州では諸工業の急激な発展に伴って人口が増加、生活が豊かになり、またトロールに代わる漁業用の発動機船の需要もあって、製氷能力を減じることはなかった。(1943・3・31設立)(1942・12・24設立)土佐製氷冷蔵株式会社…他7社(以上買収)三崎製氷株式会社3社他(1936合併)日本ドライアイス株式会社(1937・2合併)日本水産株式会社(1937・3商号変更)…(1934・5事業を合同水産工業株式会社へ継承、法人格は1934・7日本産業株式会社へ合併)共同漁業株式会社(1919・9既存の共同漁業株式会社に合併の形式)日本水産株式会社(1937・1事業を共同漁業へ継承)昭和冷凍製氷株式会社(1934・11合併)…他3社大日本製氷株式会社(1928・9商号変更)株式会社龍紋氷室日本トロール株式会社(1919・5株式会社に組織変更)田村汽船漁業部(1911・5創立)松江製氷株式会社(1929・9合併)合同水産工業株式会社(1932・5商号変更)戸畑冷蔵株式会社(1927・12設立)中央冷蔵株式会社(1932・8合併)日本漁糧株式会社(1932・8合併)(1928・5合併)合名会社小島製氷所(1926・3合併)株式会社龍紋氷室(1919・11創立)福山製氷合名会社(1925・2買収)…他2社名古屋製氷株式会社(1925・2合併)…他6社日本海洋漁業統制株式会社日本冷蔵株式会社(1945・12・1商号変更)帝国水産統制株式会社大日本製氷株式会社日本食料工業株式会社(1934・5商号変更1937・3合併)日本冷蔵沿革系統図大型合併による「日東製氷」の設立 日本製氷と東洋製氷という東西の2大製氷会社は激しく競合したため、経営上の苦境に陥ることとなった。そこで両者の合同が進められ、1919(大正8)年6月、「日東製氷株式会社」が設立された。資本金920万円をもって両社の業務を継承、1日の製氷能力が2,000tにも及ぶ新会社が誕生したのである。和合英太郎が社長を務めた日東製氷は、充実した資本力で同業社の合併により規模を拡大し、一方で増資によって施設の拡張改善を行い、能力増強に努めていった。全国の製氷能力の半分以上を占める独占企業に成長した「日東製氷」は製氷・冷蔵業界を代表する企業となる。 第一次世界大戦後、ほとんどの産業が戦後反動不況に苦しむなか、製氷・冷蔵業は著しい成長を遂げた。水産氷と陸氷の需要が急速に拡大したからである。さらに、1921年に長谷川鉄工所(現 長谷川鉄工株式会社)が国産冷凍機の第1号を送り出し、1924年には前川商店(現 株式会社

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