ニチレイ75年史
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本格的な冷凍施設の登場 本格的に食品の冷蔵・冷凍事業に着手したのが葛原猪平※10 (1879~1942)であった。1900(明治33)年に農商務省海外実業練習生として渡米し、1909年に帰国すると、東京で「葛原商会」を開いて貿易事業に従事していたが、1917(大正6)年秋に再び渡米する。このとき、第一次世界大戦に参戦した欧米諸国が食料欠乏に直面したことを知り、食料問題の重要性を痛感したという。国民に安価で良質な魚類を常時供給することを思い立った猪平は、帰国後、産地・消費地に大型冷蔵庫を設け、大量輸送に適した冷蔵・冷凍運搬船を利用して低温流通網をつくる事業を始めた。 米国から冷凍技術者であるハワード・ゼンクス父子を帯同帰国した猪平は、1918年から翌年にかけて静岡県伊東および神奈川県三崎で凍結・冷蔵を試行し、宮城県気仙沼に冷蔵庫を、次いで北海道の森に本格的な凍結設備を持つ冷蔵庫を建設※11 した。1920年には各種鮮魚を冷凍貯蔵して、翌年1月から主に東京市場に出荷した。蔵収入で支えたという。高橋熊三は回顧記の中で、開業したもののお客はなく、「冷蔵庫とはドンナものでドンナ事に役立つものであるかということが、民衆はもちろん知識階級の人達まであまりに分かっていないのにはただ驚嘆するばかりであった」と記している。 一般の人々に食品を低温で保存するという冷蔵の概念が浸透するのは、家庭用の氷冷蔵庫が普及する大正期になってからであった。第5回内国勧業博覧会(1903.3.1~7.31/入場者数約435万人)に出展された冷蔵庫(『風俗画報』1903(明治36)年9月30日) 国立国会図書館ウェブサイトから転載建物自体に冷蔵装置を取り付けた冷蔵倉庫(-10~0℃)で、最新のアンモニアガス冷凍機を使用。その建坪は133坪(約440m2)以上という巨大なもので、見学者が中に入ることができる建造物だった。第1部 製品の中継と販売のため、気仙沼と森に続いて、銚子、勝浦、焼津や朝鮮の郡山、台湾の高雄、ロシアのブロンゲに産地冷蔵庫を、青森県安方、東京芝浦、大阪府鶴町には市場冷蔵庫を、次々と建設していった。 さらに、産地と市場を結ぶために、猪平は冷力を利用した運搬船事業に踏み切る。まず江の浦丸(655t)を改造して冷凍運搬船を造り、1923年には資本金2,000万円の「葛原冷蔵株式会社」を設立※12 するとともに、1,500t級の冷凍運搬船2隻を建造、その後も新船を建造した。こうして猪平は陸上における冷凍拠点と、これをつなぐ海上輸送船の整備によって、独自に低温流通網をつくりあげたのである。 猪平の事業を有利とみた中山説太郎(1873~1961/1914年より日魯漁業専務を務める)は、1922年、神戸に「氷室組」を創立し、同年、ブライン式凍結法を採用した氷室丸(64t)を、翌年には1,462t2隻を建造した。 一方、下関の林兼商店(現 マルハニチロ)も葛原冷蔵に刺激され、こちらは125tから375tの小型冷蔵運搬船を次々に建造していった。 こうしたなか、大正末には各地で冷蔵貨車が利用されるようになったこともあり、大型冷凍船を使った運搬事業に特化していた葛原冷蔵と氷室組は、次第に経営難に陥っていった。大規模漁業が未発達だった当時にあって、大型冷凍船の積荷能力が大きすぎたのである。 猪平は経営不振の責任をとって、1925年に身を退いた。猪平が冷凍業界で活躍したのはわずか7年だったが、低温流通に新機軸をもたらした功績は大きかった。また葛原冷蔵の技術者と冷凍技術は後続の企業に引き継がれていった。葛原冷蔵株式会社事業概要(ニチレイフーズ中部支社 所蔵)はやしかね10※10 葛原猪平(くずはら いへい)のプロフィール:1879(明治12)年12月22日、山口県吉敷郡小郡町(現 山口市)に生まれる。高等商業学校(現 一橋大学)に入学するが、卒業前に渡米し、ペンシルバニア大学、ウィスコンシン大学などで学ぶ。1902年にニューヨークの米国貿易会社に入社し、1909年に退社。帰国後も貿易事業に従事していたが、電力事業にも関心を持ち、1911年に山口電灯を譲り受け、県下の有力企業に育てた。1917年に電力事業を久原房之助に譲渡して再び渡米し、帰国後、冷凍事業を始めた。事業から身を退いたのち、1928(昭和3)年に立憲政友会代議士となるが、1930年の議会解散を機に山口県に隠退。1942年1月15日、62歳で死去。※11 冷蔵室の容積は10万立方尺で温度は-10℃、冷凍室の容積は1.7万立方尺で温度は-15℃だった。※12 猪平個人が経営してきた水産物の流通事業を新会社に委譲。

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