ニチレイ75年史
35/320

「龍紋氷室」、天然氷から機械氷へ 山田啓助もまた、科学の進歩と国民の衛生意識の向上に伴って機械製氷の機運が高まったことから、1898(明治31)年、京都市上京区岡崎町に米国製20t機を備えた機械製氷工場を設置し、機械氷への進出を果たす。そして、各地で貯氷庫の増設・改造を進め、将来への備えとした。 啓助は、1907年に大阪支店に50t機の製氷工場を、1911年には東京支店に60t機の製氷工場を建設し、日本製氷に対抗姿勢を示した。これが、天然氷から機械氷への転換点となり、さらに神戸支店に50t機を新設、京都にも50t機を増設したが、工事が完成に近づいた1912年2月、啓助は67年の生涯を閉じる。このころの龍紋氷室の年間生産能力は機械氷9万8,000tと天然氷の約5万tを合わせた約15万tに達していた。 関西地区では、1900年6月、機械製氷の「大阪製氷株式会社」(資本金15万円/日産30t)が設立され、龍紋氷室と大阪製氷の競合が続いたが、大阪製氷は1912年に日本製氷に合併している。 1919(大正8)年11月、龍紋氷室は山田家の個人経営から株式会社に改め、資本金500万円の「株式会社龍紋氷室」となり、取締役社長には啓助の子息である啓之助が就任した。その後、福山製氷や永井製氷、尾道製氷を買収し、同年発足した「日東製氷株式会社」とともに、日本の製氷業界における2大勢力のひとつとなった。tという非常に大規模な設備が設置された。東京製氷も、1905年、東京深川に50t工場(蒸留水氷缶式)を建設して、機械製氷(株)と激しい販売競争を繰り広げた。しかし、共存共栄を図るため、1907年に両社は合併し、「日本製氷株式会社」が発足する。美しさと涼感を兼ね備えた花氷仕上がりをイメージしながら氷中の造花や葉の位置を微調整して、約30時間かけて不純物や空気が入らないように凍らせていく。その技術はまさに職人芸といえる。9第1章 製氷業の勃興と製氷会社の合従連衡3. 製氷業の発展と合従連衡■製氷・冷蔵業の急成長食品冷蔵の事業化 1903(明治36)年に開催された第5回内国勧業博覧会では冷蔵庫が展示されて話題になるなか、機械製氷(株)や龍紋氷室でも製氷工場の一部に冷蔵庫を設置するようになり、製氷会社による冷蔵事業の兼営が進展。一方で、冷蔵専業業者も出現するようになる。 製氷・冷蔵業は、水産物の冷蔵と大都市での清涼飲料の消費の増加に支えられて成長した。とくに日露戦争(1904.2~1905.9)後や、第一次世界大戦(1914.7~1918.11)のころからの都市の消費拡大は急速な発展の要因となった。小規模企業の創業ラッシュと同時に企業集中が見られ、経営規模はだんだん大きくなっていった。 食品冷蔵の事業化を試みたひとりが、中原孝太(1870~1943)であった。中原は1889(明治22)年に米国に留学し、法律を学びながら帰国するまでの3年間に米国の産業界を視察した。そして1899年、故郷の鳥取県で「日本冷蔵商会」を設立し、米子市に食品貯蔵のための冷蔵庫を建築、製氷所も兼営した。日本海で漁獲した魚類を低温で保存しておき、需要に応じて阪神地方に出荷しようとしたが、まだ鉄道もなく、軌道に乗せるのは難しかった。冷凍・冷蔵した食品を扱うには、輸送・販売時に変質を防ぐための低温流通網(コールド・チェーン)が必要であり、また「冷蔵」という食品の保存方法がほとんど認識されていなかった当時にあって、中原の事業は時期尚早でもあった。 経営難に陥った中原は、1905年に工場を神戸市内に移して営業を継続した。日露戦争の好況期には大阪市内にも工場を新設。資本金250万円の「日本冷蔵株式会社」(当社とは無関係)としたが、火災によって事業は頓挫することになった。 日露戦争後、日本に企業勃興が起こるなか、高橋虎太・熊三兄弟も1907年に「帝国冷蔵株式会社」(資本金300万円)を創設した。高橋兄弟は、当初、食品冷蔵専門の事業を行おうとしたが、収入を確保するために製氷と冷蔵を兼営することにした。翌年、東京築地に冷蔵容積20万立方尺という日本最大の冷蔵庫を設置、そこに日産25tのプレート式製氷工場を付設して営業を開始した。その後、1915(大正4)年まで名古屋、横浜、大阪と大消費地に冷蔵庫、製氷工場を開設したが、経営は苦しく、主に製氷と畜産物の貯

元のページ  ../index.html#35

このブックを見る