ニチレイ75年史
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■日本人資本による機械製氷会社 1883(明治16)年10月、日本人資本によって東京深川に「東京製氷株式会社」(資本金5万円)が設立された。森下忠兵衛、井沢吉五郎、本亨(読売新聞創業者)らが発起人の機械製氷の会社である。和合英太郎の『製氷発達小史』によると、「株式組織の製氷会社としては一番古い」ことになる。同社は、ドイツ系商社カール・ローデ商会が建設した築地工場を譲り受けて、その営業を継続した。翌年、亜硫酸ガス式5t機の代わりにエーテル式12t機を設 同社は1881年に競売にかけられ、オランダ人のルドヴィカス・ストルネブリンクとファン・リサが落札。社名を「横浜アイス・ワークス(The Yokohama Ice Works)」と改め、1883年にはストルネブリンクの単独経営となった。彼は増産を図るため、工場の設備充実に力を入れている。 この製氷工場は、1884年に日本人資本によって設立された東京製氷に売却されるなど、経営母体を何度も変えながら、100年以上にわたって存続した。創業以来の製氷工場は、1923(大正12)年9月に発生した関東大震災で倒壊したが、翌年には再建され、ニチレイの子会社だった旧・神奈川日冷の山手工場として、1999(平成11)年まで稼働していた。現在、この工場は解体され、跡地は結婚式場になっている。 ニチレイの祖業のひとつは製氷事業であるが、その源流をたどると、この機械製氷会社に行きつくのである。横浜が「機械製氷発祥の地」であることを記した記念碑もとのもりみち野盛777第1章 製氷業の勃興と製氷会社の合従連衡第1章 製氷業の勃興と製氷会社の合従連衡第1章 製氷業の勃興と製氷会社の合従連衡columnニチレイのルーツを見る 横浜高速鉄道みなとみらい21線の元町・中華街駅を出て右手に「機械製氷発祥の地」の碑が立っている。この地は、「ジャパン・アイス・カンパニー」があった場所で、その後、同社は横浜アイス・ワークス、東京製氷、日本食料工業へと受け継がれていった。column機械製氷の始まり!? 1870(明治3)年夏、発疹チフスにかかった福沢諭吉は、連日の高熱に苦しんでいた。諭吉を救おうと、氷の解熱作用に着目した慶応義塾の塾生は氷を入手しようと奔走。しかし、嘉兵衛が函館での採氷に成功して間もないころでなかなか手に入らなかった。そんななか、塾生は福井藩主松平春嶽が外国製のアンモニア吸収式小型製氷機を所有していることを知る。塾生はこれを借りて大学東校(現 東京大学医学部)の宇都宮三郎教授のもとに持ち込み、結氷に成功したという。column冷やしたり凍らせたりする技術の発達 16~17世紀ごろから欧州では気化熱などを利用して人工的に低温状態をつくる研究が行われ、18世紀以降、理論の発表や発見が相次いだ。1755年にはスコットランドのウィリアム・カレンが、減圧下で水を蒸気にして冷却して氷を発生させる、冷凍技術の先駆けとなる技術を発明したが、当時はあまり注目されなかったという。 人工的に氷を作りだすという人々の夢は、1824年、フランスのサディ・カルノーの冷凍サイクル理論によって大きく前進し、1834年、米国のヤコブ・パーキンスがエチルエーテルを冷媒とした圧縮式冷凍機を発明したことで実現する。その後、さまざまな冷媒が試用され、1856年にオーストラリアのジェームス・ハリソンがエーテル式冷凍機を、1860年にフランスのフェルデナン・カレがアンモニア式冷凍機を、1866年には米国のタデウス・ローエが二酸化炭素(CO2)式冷凍機をそれぞれ発明した。一方、米国の医師ジョン・ゴリーは、1844年、自身の病院に入院している熱病患者の治療のために製氷機を考案し、これがのちの空気サイクル冷凍機設計の基礎となった。 氷結まで温度を冷やす技術の商用化は、1873年にドイツのカール・フォン・リンデがアンモニアを冷媒にした蒸気圧縮式冷凍サイクルを開発したことから本格化した。同年、早くも日本に小型アンモニア圧縮機が輸入されており、当時の日本がいかに西洋の文物を取り入れるのに熱心だったかが分かる。 なお、「横浜アイス・ワークス」が当初使用していた製氷機はエーテル式3t機で、1882年にレミントン社製のアンモニア吸収式5t機、炭酸ガス式3t機を設置して増産を図ったという。また、後述する「青山製氷所」にはリンデ式のアンモニア式5t製氷機が据え付けられた。

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