ニチレイ75年史
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■横浜で始まった機械製氷の事業化 山田啓助が神戸で天然氷の販売を開始した1879(明治12)年、英国人のアルバート・ウォートルスは横浜の山手に日本初といわれる機械製氷会社「ジャパン・アイス・カンパニー」を設立した。一般消費者向けに製造・販売し、機械氷の事業化を図ったのである。ちょうや伊藤博文の名前で不潔氷の製造販売を取り締まる告示が朝野新聞に掲載された。さらに内務省は、12月4日付で「氷製造人並販賣人取締規則」を公布し、氷販売に衛生検査を導入、産地表示を義務づけた。検査に合格した氷には「官許」と「氷」の字とともに産地を染め抜いた「官許氷 函館」といった氷旗が掲げられ、いわば、天然氷の品質保証書の役割を果たした。いまも目にする氷販売店名入りの氷旗はその名残といえるだろう。さらに、1900年には内務省令として「氷雪営業取締規則」が公布され、食用の氷雪に対する衛生上の取り締まりが行われた。龍紋氷室の五稜郭での採氷のようす第1部「龍紋氷室」、天然氷での躍進 1883(明治16)年、屋号を「龍紋氷室」と定めた啓助は、1887年までに京都、神戸、大阪、大津に支店を出し、大阪に4棟、京都に2棟、神戸・大津に各1棟の貯氷庫を設置、また専売店を創設するなど、各地に「函館氷 龍紋氷室」の標旗を翻した。1890年には「大阪凍氷」を吸収合併して河内・生駒山の氷池の製氷権を掌握。こうして、龍紋氷室の天然氷は関西地区を席巻したのである。 さらに、1892年※8 に函館・五稜郭の天然氷取扱いの権利を公入札で獲得。中川嘉兵衛が始めた五稜郭での採氷事業を継承する形になった。函館に支店と冷蔵倉庫8棟を新設し、翌1893年には東京に支店と貯氷庫を設置し、首都進出を果たしている。 なお、龍紋氷室の函館倉庫は、現在、ニチレイ・ロジスティクス北海道の函館物流センターとなっている。ニチレイと天然氷との関わり、接点を、この函館の地に見ることができる。でも、氷によって一命を拾いとどめることがある」と氷の持つ効能を教わる。もともと社会貢献に関心があった啓助を「人命救助」のひと言が突き動かすこととなり、啓助は氷業に生涯を捧げることを決意したのである。 1879年、啓助は神戸で氷の販売を開始した。翌1880年には函館で300tの天然氷を買い付け、船で神戸へ輸送。神戸から本店を構える京都には開通したばかりの鉄道で運んだ。冬場には淀川から高瀬川を結ぶ船便を利用することもあったようだ。以後2、3年は、函館から年間500~600tの天然氷を仕入れていた。6※7 山田啓助(やまだ けいすけ)のプロフィール:1844(弘化元)年3月11日、江州蒲生郡馬淵村(現 滋賀県近江八幡市)で酒造を生業とし、代々庄屋を務めた宮村家に生まれる。9歳で父を亡くし、伯父に引き取られるが、その家はあまり豊かではなく、12歳で商家の丁稚奉公を皮切りに、行商、貿易商での住込み、貿易仲介業などを経験。伯父の親戚であった有栖川宮家の家臣、山田奉膳の未亡人の養子に望まれて山田姓となり、京都に移る。その後間もなく洋燈(ランプ)の貸付業を始め、28歳で結婚して「リモナード」の製造販売に乗り出し、水屋(清涼飲料水屋)を開業。そして1876(明治9)年、京都に入ってきた函館氷と出会う。龍紋氷室の天然氷は関西を席巻したが、機械製氷の将来を見越した啓助は次々に機械製氷工場をつくり、神戸と京都での新増設工事が完成に近づいた1912年2月24日、67歳で死去した。※8 和合英太郎の記述では1882(明治15)年。■西の氷王、山田啓助の「龍紋氷室」「函館氷」との出会い “東の中川”こと中川嘉兵衛の成功から、庶民の間で氷水が一大ブームとなるなか、のちに“西の氷王”と称される山田啓助※7 (1844~1912)が函館氷と出会ったのは、1876(明治9)年のことだった。 当時、啓助は京都で「リモナード」という、今日のレモン水に相当する清涼飲料水の製造・店頭販売を行っていた。当初は「水の良い京都で氷を売っても儲からない」と考え、氷を入れずにリモナードを販売していた。ところが、暑さと珍しさから氷を求める客が殺到。「うちでは扱っていない」と断ると他店に客が流れる恐れから、やむなく仕入れることにしたという。しかし、暑い盛りに売れ行きが鈍ると、氷塊は容赦なく溶けてしまう。「氷屋という商売は資本が水になる。これは孫子に伝える商売ではない」とは、1877年、啓助が氷の扱いに手を焼いた時の述懐だった。 啓助は、1878年、京都府に奉職していた化学者の池田正三から、「氷は人命を救う。暑中に生命の覚束ない熱病人2. 機械製氷の登場

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