ニチレイ75年史
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である。三河出身の嘉兵衛は、40歳のときに横浜開港の噂を知るや、さっそく上京、英国公使館のコック見習いとなった。そして、ヘボン式ローマ字創始者として知られるJ.C.ヘボン(1815~1911/1859年に来日)やD.B.シモンズ(1834~1889/1859年に来日)ら、宣教師であり医師である彼らから、氷が医療や食品の保存にきわめて有効であることを教わり、氷業という新しい事業への挑戦を始めた。 嘉兵衛が成功するまでの苦難の道のりについては諸説あるが、1861(文久元)年には富士山麓で採氷を試みている。木箱におが屑を詰めて氷を包み、馬で静岡市の江尻港まで運び、そこから帆船を借りて横浜に輸送した。しかし、到着したときには、ほとんどが溶けてしまったという。その後、1864(元治元)年に横浜元町に貯氷庫※4 を設置。信濃国諏訪湖や下野国日光山、陸奥国釜石、上野国赤城山、榛名山、陸奥国津軽と、本州を北上して次々に採氷、輸送を試みるが、失敗の繰り返しだった。その理由は、寒気が不十分で良質な氷が得られなかったことと、和船に頼る廻船や川を利用した通船による運搬に問題があったことで、氷の消耗が激しく、採算が取れなかったのである。そこでたどり着いたのが、北海道だった。 嘉兵衛は道内各地を調査し、箱館・五稜郭の製氷に適した良好な水質と船便の利便性の高さに、今度こそと事業の成功を確信する。米国から技術者を招聘するとともに、1869(明治2)年、北海道開拓使から五稜郭における7年間の採氷専取権を得て、同年冬、ついに天然氷約500tの採氷に成功する。「函館氷」の誕生だった。五稜郭伐氷図(明治10年/函館市中央図書館 蔵)作業者の遠景に函館山、その手前に氷を積み出す函館湾がわずかに見える。採取場所から積み出し港までが近くてかつ平坦という好条件を備えていた。採氷は、氷面に切り出し線を引く、長いのこぎりで氷を切る、大きな氷鋏で持ち上げる、氷の上の雪を掃く、そりに載せて運ぶなど、組織的な作業が行われていた。 函館氷の京浜地区への初出荷の時期についても1869「函館氷」の成功 嘉兵衛は、1871(明治4)年に函館の豊川町に3,500t収蔵可能な貯氷庫を、1873年には日本橋の箱崎町に大型氷室を建設するなどして、天然氷事業を軌道に乗せていった。ボストン氷※6 よりも安価で良質だったことから、主な顧客である横浜居留地の外国人医師らの支持を得て、函館氷はボストン氷との販売競争を制することになる。さらに嘉兵衛は米国から採氷機を導入し、作業を効率化するなどして低価格化に努めた結果、函館氷は広く出回るようになる。 嘉兵衛は1872年5月7日発行の「東京日日新聞」に、氷の効能を伝え、北海道で採った氷は宮内省の御用にもなっているとした広告を出している。広告では、氷1斤(約600g)の定価が4銭(400文)とあり、当時の白米1升(約1.5kg)が5銭程度であったから廉価とはいえないが、新聞広告を出すほどの事業に育てた功績は大きいものだった。 函館氷の販路は外国商船・軍艦、また海外にも拡大した。清国や韓国、シンガポール、インドなどへの輸出は、1873年からの4年間で約8,000tに達したという。各地に採氷業者が続出 函館氷の成功を受けて「氷業は儲かる」との評判が広がり、採氷業者や氷販売業者、氷水店が全国に急増する一方で、粗悪氷による悪評も新聞紙上を賑わすようになった。 こうした状況に、1878(明治11)年9月22日には、内務卿年から1872年まで諸説あるが、のちに“製氷業界のドン”とも呼ばれた和合英太郎(1869~1939)が記した『製氷発達小史』によると、東京永代橋にある開拓使倉庫を借り受けた嘉兵衛は、1870年1月、600tの函館氷を初めて横浜に出荷※5 したとある。最初の荷はたちまち完売したという。明治15年頃龍紋氷室が東京から京阪神地方向けに用いた宣伝文5※4 この貯氷庫は16坪。その後、暴風により壊れたため、1868年に倍の広さ、32坪のものを新造。※5 京浜地区への初出荷については、1869年~1872年まで諸説あり、出荷量も500t、600t、670tと分かれる。ここでは、和合英太郎の記述にしたがい、1870年、600tとした。※6 当時のボストン氷の輸入量は、年間約1,000tだったという。第1章 製氷業の勃興と製氷会社の合従連衡

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