ニチレイ75年史
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■文明開化と天然氷開港と「ボストン氷」の輸入 江戸時代、徳川幕府は外国との交渉地を限定してきたが、江戸時代末期になると、外国船が交易、そして薪水や食料の供給を求めて頻繁に来航するようになる。1853(嘉永6)年6月、米国大統領の国書を携えたペリー提督が率いる軍艦が浦賀に来航したことで事態は一変、翌年、再来航したペリーとの間に、3月、幕府は日米和親条約を締結して国交を開き、下田、箱館(函館)2港の開港を承認することとなった。 その後、幕府はロシア、イギリス、フランス、オランダの各国とも相次いで同様の条約を締結。1858(安政5)年7月には日米修好通商条約が調印され、ほかの4国とも同様の条約が調印された(安政五カ国条約)。こうして1859年より、神奈川、長崎、箱館、兵庫、新潟の5港が順次開港し、日本は国際社会に参加していった。 貿易が始まると、各地に外国人居留地が設けられ、さまざまな物資が輸入されることになるが、そのひとつに氷があった。当初、氷は居留する外国人の飲料や食肉の保存用、また外国人医師による火傷や熱病などの治療に利用されていた。この氷は、米国の実業家で“Ice King”と呼ばれたフレデリック・チューダー(Frederic Tudor/1783~1864)が、1805年から米国ニューイングランド地方の河川や湖沼で採取、販売を始めた天然氷で、積み出し地であるボストンの名前をとって「ボストン氷※1 」と総称された。ボストンから大西洋を南下し喜望峰、インド洋を経て横浜まで※2 を、およそ半年がかりで輸送された。そのため目減りが激しく、氷の価格はみかん箱もしくはビール箱程度の大きさで3~5両(現在の30万~50万円)と、非常に高価だったという。■天然氷事業の先駆け、中川嘉兵衛と「函館氷」嘉兵衛、苦難の道のり ボストン氷の需要が増えるなか、国内で天然氷の製造・採取と販売の事業化を志したのが中川嘉兵衛※3 (1817~1897)第1部文明開化と氷 1867(慶応3)年10月、徳川幕府が大政奉還した後、翌1868年1月、新政府の樹立が宣言(王政復古の大号令)された。旧幕府勢力は新政府と武力衝突(戊辰戦争)するが、ご1869(明治2)年5月、五の戦いを最後に幕藩体制は崩壊し、明治新政府による中央集権国家確立への途が開かれた。せい 1868年3月、新政府は「五箇条の御誓」を出し、新しい政治の方針を示すとともに、江戸を東京と改称、年号も明治に改めた。東京が首都となったのは、その翌年である。そして、富国強兵、殖産興業を国是として、欧米諸国の制度・文物の移入によるさまざまな改革が急速に行われた。 西洋の文明に触れ、江戸の町も人々の生活・風俗も大きく変わっていった。1871年の「散髪脱刀令」公布に続いて、1872年には太陽暦が採用され、やがて1日24時間制や七曜制も実施される。鉄道が開通し、都市ではガス灯が灯り、れんが造りの洋風建築が建ち並ぶなか、舗装道路を鉄道馬車や人力車が走るようになる。洋服を着て帽子をかぶり、靴を履く人も増えた。1872年にはミルクホールが登場し、牛肉、牛乳、パン、西洋料理などが食生活に取り入れられるようになる。 こうした変化のなか、氷は食生活や衛生・医療の分野で有用なものとなっていった。牛肉を食べるようになると、居留外国人らの需要もあり、食肉の熟成や保存に不可欠な氷の需要は増大した。また、チフス、肺炎、天然痘などの熱病や火傷から人々を救うことで、医療分野での氷の重要性はいっそう認識されるようになる。かく郭りょう稜ぼしんもん文4※1 ボストン氷は1889年ごろまでは英国にも輸出されていたが、その後、ノルウエー氷が欧州市場に出回るようになると、ボストン氷をはじめとする米国氷は市場から締め出され、約100年続いた米国の天然氷採取業の歴史は幕を閉じる。※2 フレデリック・チューダーは、カリブの島々やブラジル、そして英領インド(カルカッタ)に販路を広げていった。さらにセイロン(現スリランカ)、ラングーン、バタヴィア、シンガポール、香港、横浜へと順に販路を伸ばした。※3 中川嘉兵衛(なかがわ かへえ)のプロフィール:1817(文化14)年1月14日、三河国額田郡伊賀村(現 愛知県岡崎市伊賀町)の郷士の家に生まれ、16歳で京に出て漢学を学ぶ。その後、単身で江戸に出た嘉兵衛は氷業を志す。一方で、牛肉店や牛乳店、パン・ビスケット店などを開業、新潟での石油採掘にも興味を示すなど、新事業に次々と挑戦した人生であった。1897(明治30)年1月4日に79歳で死去。1. 文明開化とともに ~天然氷事業のはじまり第1章 1868(明治元)年~1936(昭和11)年製氷業の勃興と製氷会社の合従連衡

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