ニチレイ75年史
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ひして、“削り氷 氷室の利用を裏づけるように、奈良国立文化財研究所(現 奈良文化財研究所)の発掘調査によって、1988(昭和63)年、奈良時代初期の皇族政治家、ながやのおおきみ長屋王邸宅跡から「都■氷室」と記された木簡が発見された。木簡には、都■に専用の氷室を持ち、1丈(約3m)ほどの深い穴を掘って、冬に作った氷に草をかぶせて保存していたこと、夏から秋に氷室から多量の氷を馬で運ばせていたことなどが記され、8世紀初めの蔵氷・賜氷制度確立や氷室の実態が明らかになった。役所で氷を購入した別の記録も残っており、氷は高級品ではあったが、平城京の市で商品として流通していたとみられる。 平安時代の物語では、氷で涼をとるようすや水飯と呼ばれる干し飯や固粥に水氷をかけたものを食べるようすが描かれている。清少納言の『枕草子』(第42段)では、「あてなるもの(上品なもの)」とる”が挙げられている。 紫式部の『源氏物語』の中では、“大御酒まゐり、ひみず氷水召して水飯などとりどりにさうどきつつ食ふ”(常夏)などの描写があり、平安貴族の夏の贅沢で雅な楽しみであったことがうかがえる。 鎌倉時代に入ると氷室(蔵氷・賜氷制度)は一時衰微するが、江戸時代になり徳川将軍家への氷の献上が「加賀様のお雪献上」の形で年中行事化していった。 朝廷、宮中、諸大名など、一部の特権階級のための贅沢品だった氷であるが、幕末の横浜開港後は、飲料水や食品保存、また医療分野など日常生活で利用されるようになる。に甘あまづらかなまり葛入れて、あたらしき鋺に入れた3

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