ニチレイ75年史
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●土地資源の高度活用へ 2021年3月期における不動産事業の売上高は46億4,600万円、営業利益は20億1,700万円と、売上高は全社売上比率で0.8%だが、全社営業利益の6.1%を占めている。 1945年12月、当社が日本冷蔵として再出発した際、帝国水産統制が全国の主要都市・漁港に持っていた260余の冷凍冷蔵施設などを継承した。これらは戦後の企業再建整備法、あるいは当社の事業ニーズに即してスクラップ・アンド・ビルドが繰り返された。また、それ以上の規模で、新工場用地の取得や社宅など福利施設への投資を重ねたことで、社有地は増大していった。 特に1970年代以降、市街地を中心とした数千トンクラスの冷蔵施設は、港湾の大規模・最新施設への移転が進み、廃止する工場が増え始めた。そうした遊休地を管理するとともに、経営資源として活用するため、1972年2月に不動産課を設置し、10月には管理課と事業課を持つ不動産事業部へ組織替えした。同事業部が最初に手掛けたのは、神田工場跡地を本社兼オフィスビルに建て替える事業だったが、これは第一次石油危機に遭遇するなどの曲折を経て1976年に着工、1979年11月、地上11階建ての本社ビルが竣工・稼働した。●マンションと戸建て住宅事業の展開 土地を再開発する場合、オフィスビルや住宅あるいはレジャー施設など、さまざまな活用形態があるが、当社はまずマンション事業から出発し、1980年代半ばからオフィスビル事業を展開した。 だが、不動産事業は、それまでの事業と勝手が違ったため、不動産に関する専門的な知識を持つ住友信託銀行との合弁により、1974年4月、ニューハウジング産業を設立した。同年7月に当社の前動坂工場跡地に「シャルマン文京千駄木」を建設・販売したのを皮切りに、1978年には「シャルマン築地明石町」(明石町別館・倉庫跡地)、「シャルマン武蔵中原」(中原独身寮の跡地)と続いた。1979年に入ると、「シャルマン荻窪」(荻窪工場跡地)、「シャルマン東品川」(東洋製作所工場跡地)、「シャルマン明石」(明石工場跡地)、「シャルマン松濤」(松濤社宅跡地)、「シャルマン本所業平橋」(業平橋工場跡地)と一挙に事業を拡大。折からのマイホームブームに乗って、市街地に立地するマンション販売は好調だった。 こうして不動産事業のノウハウを蓄積した当社は、「明日のニチレイ」キャンペーンの中で安定した収入が得られるビル事業に着目、方針を転換した。そのため、ニューハウジング産業への土地売却は、1981年の静岡支社跡および幕張グラウンドの一部、1983年の広島第二工場跡地の一部(「シャルマン千田町」)と地方でも事業を展開した。 一方、住宅事業はニューハウジング産業による分譲マンションに代え、当社主体の戸建て分譲を推進した。1983年の埼玉県・狭山地区(12戸)にはじまり、北海道・江別(1986年4月、15戸)、横浜市・長田東(1990年6月、2戸)などが続き、1995年に茨城県・牛久の第一次分譲を開始した。これは関連会社の東洋工機の工場跡地に、駅までのアクセス等を考慮して買収した用地を含め、造成した用地は2万1,753㎡に及び、118区画を16期に分けて分譲し、2019年2月に完売した。●オフィスビル事業の展開 オフィスビル事業は、広島第二工場跡地に建設した広島ビルに始まった。同ビルは1984年3月に着工、翌年2月に竣工し、関連会社の山陽コカ・コーラボトリングに一括賃貸※1 した。 そして、バブル経済の最中にあって、東京都のウォーターフロント計画をはじめ、中央区の「大川端地区再開発」「聖路加国際病院再開発」「築地市場整備計画」など大規模再開発プロジェクトが動き出す中、1988年12月、隅田川沿いの前明石町工場・旧明石町食品工場跡地に地上18階・地下2階建てのニチレイ明石町ビルが竣工する。高級賃貸マンションを併設したニチレイ明石町ビルは、同地区の開発を先駆するビルであり、当社にとっては本格的なオフィスビル賃貸事業の開始となった。なお、同ビルは完成と同時206社有地などの資産を有効活用不動産事業

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