ニチレイ75年史
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●経営危機を機に保管型からの脱却 石油危機と200カイリ問題という2つのショックが重なった1980年は、冷凍部門の売上高が初めて前年度比4.3%減のマイナスとなった。魚価高騰や魚離れによる影響が顕在化したためだが、安定収益を上げ続けてきた冷凍部門の不振に、水産事業の巨額損失が加わって、当社は経営危機に直面した。そこで始まったのが「明日のニチレイ」キャンペーンだった。新生ニチレイを構築するために社員から寄せられた提言も、冷凍部門に対するものが最も多かった。「明日のニチレイ」を具現化する後期経営計画(1985年11月策定)の中で、冷凍部門は冷蔵倉庫の保管能力の増大とオンライン化を進めると同時に、低温物流事業としての確立を目指すこととされた。冷蔵倉庫における保管型から流通型への変化は、冷凍から低温物流への動きと密接に結びついていた。1977年に冷凍食品の輸配送の合理化を図るべく設立した大阪低温急送を嚆矢とし、1984年には東京低温流通を設立、同年、カルーセル式自動倉庫の機能を備えた船橋流通センターの運営を開始した。1986年8月、当社は低温トラック輸送部門を担う日本低温流通(NTR)を設立、全国ネットワーク体制を整えていった。NTRでは商品データや格納場所の管理に独自のコンピューターシステムを導入した。 当社は、景気の回復に輸入品の増加基調が加わった1986年から思い切った投資に踏み切った。同年に3万6,300tの大井第二工場を設置したのを皮切りに、毎年、新設、建て替え工事を行い、1990年4月に4万7,000tという、単体では当時日本最大の保管能力を持つ船橋第二186200,000150,000100,000(百万円)250,00050,00019848586087888990919293949596979899大阪埠頭工場 第一次石油危機により遠洋漁業は大きな痛手を受けたが、代わってエビに代表される水産物輸入が増加していた。冷蔵倉庫の需給は依然として旺盛で、石油危機後には再び新増設が相次いだ。1975年から1980年にかけて全国の冷蔵倉庫設備能力は558万tから754万tへ約35%の増加をみた。当社でも44万3,000tから57万8,000tと、全国平均を下回りはしたが、30%を超える増加となった。しかし、1979年に起こった第二次石油危機により、日本経済は翌80年から3年に及ぶ景気停滞期に入った。この間、当社は不採算工場などを整理したため、設備増強としてはゼロ成長となった。低温物流事業の売上高の推移NTRのトラックヤード

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