ニチレイ75年史
125/320

~社会経済・食品業界の6年間~ 2001(平成13)年からのゼロ金利政策に代表される金融緩和策、また同年4月に発足した小泉純一郎政権が打ち出した郵政事業民営化をはじめとした「聖域なき構造改革」などによって、日本経済は2002年2月から景気拡大期へと入った。景気拡大期間は2008年2月まで73カ月に及び、いざなぎ景気を超えて戦後最長を記録したことから、「いざなみ景気」とも呼ばれた。しかし、景気回復をけん引したのは円安と世界的な景気回復による輸出拡大で、多くの国民にとっては「実感なき景気回復」だった。 景気回復の弱さは、拡大期の間に2度の停滞期があったことにも現れている。2003年のイラク戦争勃発にSARS(重症急性呼吸器症候群)感染地域の拡大が追い打ちをかけた時期と、2004年8月のアテネオリンピックの過大な需要見通しによる国際的なIT関連財の需要鈍化が起きた時期である。どちらも輸出の伸びが鈍化したことが原因だった。 食品業界においては、1999年4月に米国に本拠を置くコストコ、2000年12月にフランスのカルフールがそれぞれ日本第1号店を出店、外資系小売会社の進出は業界にとって再編を促す脅威と捉えられた。 一方で、食の安全・安心が大きな社会問題となった。2000年3月に宮崎、同年5月に北海道で92年ぶりに口蹄疫が発生し、2001年9月に日本初のBSE(牛海綿状脳症)が確認された。そのほか、未承認遺伝子組み換え農産物問題、基準を超える残留農薬問題、鳥インフルエンザによる中国産家禽類の輸入禁止、牛肉等産地偽装問題など、特に2000~2002年は食品衛生に関する事件・事故が相次ぎ、消費者の信頼回復への取り組みが強化された。~当社の6年間~ 大手外資系企業の日本進出による流通の変化や食品業界再編への危機感を強めた当社は、来るべき環境激変にどう備えるか検討を進めてきた。これまで各事業がニチレイという一つの傘の中でカバーし合う形となり、事業損益上は黒字でも資本効率まで考えると赤字事業が存在するなどの根本的な問題が解決されずに持ち越されていた。しかし、それでは業界再編が起こった場合、当社が主導権をとることは難しい。事業別に損益計算書もバランスシートも分けて、いざ再編の際には各事業がそれぞれに主導権をとれる形=グループ運営体制を確立していこうと、持株会社体制への移行を決めた。 2001年の事業ユニット制の導入、2003年の社内カンパニー制と段階を踏み、2005年4月、持株会社体制への移行を実施した。遠心力に重きを置いた、大幅な権限委譲と責任の明確化によって、各事業会社が自立し、意思決定の迅速化とともに、従業員の経営参画意識をより高めた経営体制を実現した。 この間、2001年6月に、当社経営は負の遺産の整理とマネジメント体制の整備に力を尽くしてきた手島忠社長から、大戸武元会長と浦野光人社長のチームCEO体制へと引き継がれた。また低温物流事業、水産事業の業績悪化への抜本的な対処を迫られた当社は、2004年に低温物流事業の分社化を先行させ、2006年には水産事業の再生プランを始動させた。使用資本の回転を意識し各事業の収益性の改善に注力した結果、2007年3月期の有利子負債残高は729億円と、財務体質が最も悪化した1998年3月期と比べ約3分の1に圧縮、健全な水準に改善した。 そうした中、食の安全・安心に関わる問題は、当社にとっても重くのしかかってきた。品質保証をはじめとする仕組みを根底から見直し、取引先の協力も得ながら、解決に向けて真摯に取り組み続けた。企業不祥事が相次ぎ企業に対する信頼感が大きく損なわれている状況下であったが、当社では2001年にグループ企業経営理念を制定して経営の根幹を明確に示すとともに、広く好感と信頼を寄せられる企業グループを目指してCSR活動を推進した。99第7章 激しい環境変化に持株会社体制で対応第7章 2001(平成13)年~2007(平成19)年3月激しい環境変化に持株会社体制で対応この時期の概況

元のページ  ../index.html#125

このブックを見る