ニチレイ75年史
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社会経済・食品業界の5年間 バブル崩壊後の日本経済は、1990年代から2000年代初頭にかけて、「失われた10年」とも呼ばれる景気後退と長期不況を経験した。デフレの顕在化と円高により、製造業の海外移転が相次ぎ、産業空洞化が進んだのもこの頃である。 民間企業が設備・雇用・負債という3つの過剰を抱え込む中、1997(平成9)年のアジア通貨危機を機に世界的な金融危機が発生。大手金融機関の破綻が相次ぎ、金融システムへの信頼が大きく揺らいだ。1998年の実質GDP成長率はマイナス1.1%と第一次石油危機時の1974(昭和49)年(マイナス1.2%)以来のマイナス成長を記録した。 また、大手証券会社の破綻原因となったのが、いわゆる「飛ばし」という簿外の受け皿会社への含み損の付け替えだったことから、連結財務諸表制度は次第に強化されていった。1999(平成11)年度以降、「会計ビッグバン」の一環として、連結会計、金融商品の時価会計などの分野で新基準が順次設定され、企業会計制度は大きな転換点を迎えた。 一方、食の安全にかかわる問題がこの頃から頻発するようになる。病原性大腸菌「O157」による大規模な食中毒事件の発生や環境ホルモン問題、ダイオキシン問題のほか、遺伝子組み換え食品や食品添加物の危険性に関する議論も活発になった。 2000年4月施行の改正JAS法では、すべての食品に品質表示が義務づけられ、有機食品についての新たな規格も設けられることになった。ところが同年6月に大手乳業会社の大規模な食中毒事件が起こり、食品業界は衛生管理や危機管理、情報開示の方法について見直しが迫られるとともに、消費者の信頼回復が大きな課題となった。当社の5年間 経営環境が激変する中、当社は1996年にグループ構成員全員で共有できる企業経営理念──「くらしを見つめ、人々に心の満足を提供する」──を制定するとともに、構成員それぞれのミッション(使命・役割)を明確にし、グループ経営の再構築を図った。 しかし、子会社の不祥事や低迷を続けてきた北米事業で巨額の損失を計上(詳しくは92ページを参照)し、1998年度は戦後の混乱期を除いては初めての赤字決算を経験。新たな会計制度の導入を目前に、子会社統治の見直しと財務体質の改善が急務となった。 当社は、不採算事業の整理や国内ホテル事業の再建など、これまでの拡大路線によって生じた負の遺産を一掃し、併せて会計制度の変更に伴う費用負担を一気に解消するため、1999年度と2000年度にそれぞれ200億円を超える特別損失を計上、資本効率の向上と資本構成の適正化を図った。 また、1997年には都市銀行による特殊株主(総会屋)への利益供与が発覚し、企業のコンプライアンスに対する姿勢が厳しく問われることになった。当社においても特殊株主との交際を断ち、同時に子会社社員の不正流用事件を教訓として、1999年、倫理委員会を設置した。さらに企業経営(マネジメント)のあり方に日本経営品質賞※1 の考え方を導入し、顧客の視点から経営を見直し、自己革新を通じて顧客の求める価値を創出し続ける組織作りを実行に移していった。 この5年の間に、「FC(フレッシュクリエーション)プログラムⅡ」「中期構造改革計画」「修正中期構造改革計画」と3次にわたる計画を策定、実行していったことからも分かるように、当社にとって、バブル崩壊後に露呈したさまざまな問題(詳しくは90ページを参照)や制度変更に対処し、一方で新しい事業の芽を育みながら、経営の刷新に向けて苦闘した時期だったといえる。第2部86※1 1995年12月、日本生産性本部が創設。日本企業が国際的な競争力のある経営構造へ質的転換を図るため、顧客の視点から経営全体を見直し、自己革新を通じて新しい価値を創出し続ける「卓越した経営の仕組み」を有する企業を表彰する制度。第6章 1996(平成8)年~2000(平成12)年経営刷新に向けた取り組みこの時期の概況

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