ニチレイ75年史
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■迅速な初期対応と継続的な支援 1990年代半ばは、地下鉄サリン事件、政界再編、異常気象と米の大凶作・水不足など社会不安が続いた。そうした中、1995(平成7)年1月17日、阪神・淡路大震災※45 が発生し、死者・行方不明者6,437名、全・半壊住宅24万9,180棟、全半焼住宅7,132棟に上った(総務省消防庁の統計より)。 当社では神戸地区のLSCで荷崩れが発生し、短期間ではあるが営業停止となった。保管貨物に被害はあったが、幸い人的被害はなく、建物被害は比較的軽微にとどまった。当社は直ちに対策委員会を設置し、1月末までに次の対応をとった。■50周年記念事業とFCプログラム 1995年12月1日、当社は創立50周年を迎えた。当日は、全国各事業所で創立50周年を祝った。 本社で挨拶に立った手島は、新たな歴史を創造するには、まず広く社会から共感と支持を得られる企業であること、第2にお客様に心から満足していただける商品とサービスを提供し続ける企業であること、第3に事業規模にふさわしい適正な利益を得られる企業でなければならないことを強調した。そして「これらの成果を生み出す源は唯一『人』にある。ニチレイは幸い、誠実で優れた人材に恵まれているが、健全な身体とゆとりある心で仕事に取り組む職場であってこそ、皆さんの能力は磨かれ、発揮される。皆さんとともに風通しの良い、明るく、生き生きとした職場づくりに一層力を入れていきたい」と語った。 その後、募集した「21世紀に向けたニチレイグループへ至った。利益も徐々に伴ってきた。しかし競合他社も同様に伸び、当社のシェアは一進一退だった。【一般被災者支援】・ ニチレイふれあい基金※46 から、日本赤十字社経由で兵庫県と神戸市へ各200万円を支出・ 救援物資として、神戸、西宮、芦屋、宝塚の各市へ缶詰1,400ケース、アセロラ商品600ケースを拠出。神戸市に2月3日までの7日間で焼おにぎり70万食を拠出【従業員被災者支援】・災害休暇適用と貸付社宅制度の条件を緩和、会社住宅融資金の融資条件の緊急適用・ニチレイ共済会※47 より、以下を対応① 共済会の融資条件の緊急緩和措置(厚生資金・住宅資金)② 共済会の見舞金増額改訂(災害見舞金、傷病見舞金)【ニチレイグループ被災者支援】・ ニチレイふれあい基金の臨時受付分と関係会社からの見舞金から、見舞金を贈呈 当社は復興支援を継続し、4月にレトルトスープ1万食、6月に同スープともつ鍋の合計3万食をニチレイふれあい基金より支援した(被災地の状況を考え、常温食品を支援)。同基金は1995年3月末までに計1,608万円、1995年度には1,150万円の支援金を送り、96年6月に残高12万5,602円を寄付して被災者支援活動を終えた。ボランティア休暇を利用して現地に赴く従業員も見られた。83※45 マグニチュード7.2、最大震度7。気象庁は「平成7年兵庫県南部地震」と命名した。※46 1993年創設のマッチングギフト制度。福祉や自然保護・文化芸術の活動を支援。有志従業員の賛同金に会社の賛同金を加えて資金化。※47 従業員の福利厚生事業推進を目的とした福利厚生団体。役目を終えて2006年に業務終了。第5章 新生ニチレイへ13. 阪神・淡路大震災の影響と対応14. 創立50周年■新社長に手島忠が就任 バブル崩壊で日本の安定成長は終わり、「失われた10年」「失われた20年」と呼ばれる低成長期に入った。 1982(昭和57)年度以来続いた当社の増収増益は1991(平成3)年度で止まった。連続増収は続いたが、1991年度から93年度は横ばいに近かった。売上高の過半を占める食料(水産・畜産)事業の価格低迷は大きかったが、この間、冷凍食品が全社を牽引した。 こうした中、1993年4月の役員会で、社長を5期10年務めた金田幸三が辞意を表明し、後を手島忠に託した。6月29日に手島は第6代代表取締役社長に就任、金田は会長となり、手島は内務を、金田は外務を主とする役割とした。 なお1995年2月、第2代社長で相談役の木村鑛二郎が91歳で永眠した。3月14日、東京・築地本願寺で社葬を執り行った。

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