ニチレイ75年史
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■時代を変えたサクサクのコロッケ 1994年3月に画期的な新商品を発売した。「サクサクコロッケ(ミニ)」(後に「衣がサクサク 牛肉コロッケ(ミニ)」と改称※41 )である。当時の金田社長の「3〜4年かけてでも、他社がまねできない大型商品を作れ」という指示のもと開発した商品だった。 開発に当たっては約15人の若手社員が議論を重ね、食卓への登場頻度が多く人気が高い一方で売り上げが伸び悩んでいた市販用冷凍コロッケにターゲットを絞った。主婦層に調査をすると「コロッケはおいしいが、油で揚げるのは嫌だ」との声が圧倒的に多く、開発の方向性は「油を使わずに、揚げたての味を実現」に定まった。 冷凍コロッケを家庭で揚げずに食べるには、生産工場で1度揚げた上で凍らせ、家庭でそのコロッケを再加熱するしかない。だが再加熱方法が難問だった。当時、加熱調理には主にオーブントースターが使われていたが、熱源から放出される赤外線では中まで熱が通りにくかった。そこで当社は家庭に急速に普及していた電子レンジに注目した。電子レンジは中まで加熱しやすく、使い勝手が良かった。 しかし、電子レンジではサクサク感は出せない。電子レンジは中種の水分を振動させて加熱する仕組みだが、温度上昇とともに中種の水分が衣に移ってサクサク感がなくなるからだった。 そこで、食品開発研究所の半数を動員してこの難問解決に取り組み、遂に「新・レンジ生活」シリーズとして「サク■グルメ・飽食の時代の冷凍食品 平成期に「食」に関するテレビ番組が増え、「グルメ」や「飽食」の時代が始まった。働く女性や単身生活者が増え、ダイエットや低カロリーがトレンドとなるなど、食も多様化した。これに呼応してスーパーやコンビニエンスストア、外食産業はさらに成長した。 一方、バブル崩壊で株価や地価が暴落、失業率も上がって日本は長い平成不況に見舞われた。デフレで消費が落ち込む中、冷凍食品は数少ない成長分野だった。1990(平成2)年に冷凍食品の生産高は102万5,000t(前年比108%強)と100万tを超え、1人当たりの年間消費量も10㎏を超えた。生産高は92年に120万t、94年には130万tと順調に増え続けた。 当社においても1985(昭和60)年以降、ヒットを連発する中、91(平成3)年発売の「焼おにぎり※40 」が人気を博した。昔懐かしい香ばしさを訴求ポイントにし、これが「日本の味」シリーズに発展していった。■ホクレンと冷凍米飯で提携 「焼おにぎり」が人気を博した陰には、こだわりの素材調達力があった。「焼おにぎり」の発売に向けて、当社では1989年より米の調達先を探し始めていた。品質などの安定性と長期的に取り組める地域を検討する中で、複数の産地から調達するより、1つの地域とじっくり取り組むほうがシンプルなトレースバックも可能となり、その地域の農業活性化に貢献できるのではないかとの判断に至っグ・オランダが新設した「ヒワ・ロッテルダム・ポート・コールド・ストアーズB.V.」に吸収合併した。運送業では1989年8月、西ドイツとオランダの両国で低温運送業・通関業を営む「テルモトラフィック・ドイツGmbH」と「同オランダB.V.」を買収した。 1990年末には9倉庫、保管能力27万1,200tを有した。日本国内の庫腹と合わせて1990年代半ばには世界有数の冷蔵倉庫会社となった。た。一方、北海道のホクレン農業協同組合連合会では、販売開始から2年目の「きらら397」がほかの地域のブランド米人気に押され、劣勢に立たされていた。炊き上がりは粒がふっくらして味のいい品種を、どう消費者にPRしていけばよいか苦慮していたところに、加工用途の道が開けたのは大きなターニングポイントだったという。そうした両社が出会い、「きらら397」を原料とした「焼おにぎり」が誕生した。 当社はホクレンとの間で冷凍適性の高い米飯を開発するなど有機的な提携を進め、2001年発売の「本格炒め炒飯」でも、この北海道産米が使われることになる。81※40 1989年に日本水産が「焼きおにぎり」を発売、当社が続いて、冷凍焼おにぎりの市場を拡大した。※41 「サクサク」がニチロの登録商標「SAKU SAKU」を侵害するとして、1994年10月に提訴された。係争の結果、当社は商品表示を改め、ニチロは損害賠償請求権を放棄することで、96年9月に和解した。第5章 新生ニチレイへ12. 多くのヒット商品を 送り出した加工食品

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