ニチレイ75年史
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■変遷しながらも南米事業を継続 早くから事業展開していた南米ではマグロの洋上輸出から捕鯨へと事業が変遷し、エビ漁業にも注力していた。1975年に日本向けにエビの輸出を始めると、78年には「アマゾナス食品工業」を設立、エビの買い付け、加工を営んだ。87年にクラサオ開発を「ニチレイ・カリブ」に改称し、その傘下に「ニチレイ・フロリダ」を設立。中南米産エビの集荷と米国向け販売を移管した。1979年には、チリの水産物を輸入するため、ブエノスアイレスに駐在員事務所を設置した。 1987年以降の商業捕鯨が禁止されると、コペスブラはマグロ事業に続いて捕鯨からも撤退した。エビだけとなったブラジル事業だが、91年に「ニチレイ・ブラジル農産」を設立し、新規事業としてアセロラ原料の集荷を始めた。■海外での加工生産・輸入へ 1970年代から80年代にかけて日本は、海外から食材を輸入して国内で生産した。しかし80年代後半になると円高や加工費高騰、労働力不足で、生産拠点を海外、特に中国などのアジアに移す企業が増えた。製造業の空洞化、技術力低下を指摘する声もあったが、現実的な選択だった。 当社も1988年3月、タイ・バンコクに現地資本と合弁でスラポン・ニチレイ食品を設立し、翌89年からエビフライを生産・輸入した。漁獲後すぐに現地で加工・凍結する「産地パック」シリーズは鮮度や生産コストで優位性があり、大ヒットした。同年、シンガポールにもマリスコ・ニチレイ食品を設けてフライ類を生産したが、これは地代や物価が高くて採算が合わず、95年に撤退した。 中国では1988年に上海日冷食品を設立し、冷凍食品の「中華点心」「ロールキャベツ」を生産、93年には山東日冷食品を興して鶏肉加工を強化した。缶詰に関しても1991年に浙江省象山県でミカン、95年には河北省平谷県でモモの生産委託を始めた。■苦戦した水産・畜産 水産業界では1980年代後半、米国内でカニカマ需要が伸び、他社が米国に生産拠点を新設した。当社も1988年10月、すり身生産の「アラスカ・オーシャン」設立に際してニチレイ・アメリカを通じて資本参加した。しかし200カイリ問題などでスケトウダラ漁に支障がでると、すり身の高騰、練り製品の消費減などに見舞われ、アラスカ・オーシャンの経営は悪化した。当社は1995年9月、同社の株式を無償譲渡、債権も放棄した。 畜産事業ではサンハスカー・フーズの設立、「テング」の買収のほか、1988年に西ドイツ(現 ドイツ)のルッツ社と技術提携し、「Lutz」ブランドの高級ハム・ソーセージを千葉畜産工業に生産させて同社を立て直そうとしたが、成功しなかった。また牛肉の輸入自由化※36 を控え、1989年に米国・シンプロット社※37 と取引を開始したが、これも思うよズの子会社となっていたアメリカ・ニチレイ食品は、1994年1月にベレルソンを吸収合併して社名をニチレイ・フーズ・アメリカに改めた。第2部ポテトを開発。うな販売につながらず苦戦した。80※36 1988年に、91年4月以降の牛肉輸入自由化、関税の段階的引き下げなどに合意。※37 1929年アイダホ州で創業の巨大アグリ事業会社。世界で初めて冷凍フライド※38 1952年の欧州石炭鉄鋼共同体などを母体に、67年に欧州共同体(EC)が誕生。86年に単一市場と政治協力が進展し、93年には欧州連合(EU)が発足した。※39 オランダの商工業都市で世界有数の貿易港。欧州の玄関口である外港・ユーロポートを有する。■低温物流事業がヨーロッパで展開開始 当社の冷凍事業は日本国内での展開が続いたが、1980年代後半、海外展開を開始した。力を注いだのは欧州で、欧州統合※38 を見据えて食料の輸入窓口であるオランダ・ロッテルダム※39 に拠点を置いた。米国と同様のM&A手法を採り、まず1988年8月、当社は資金調達会社として「ニチレイ・ファイナンス・オランダB.V.」を設立した。次いで同年9月、欧州有数の冷蔵倉庫会社「ユーロフリゴB.V.(オランダ)」と、その子会社で港湾運送・通関業を営む「エクステンソB.V.」を買収し、ユーロフリゴの傘下に冷蔵倉庫を営む「ユーロフリゴ・フェンロB.V.」を設立した。 1989年3月、当社は欧州の関係会社を管理統括する「ニチレイ・ホールディング・オランダB.V.」を設立すると、同社にユーロフリゴの株式を譲渡した。翌90年2月には同社が「ニチレイ・コールドストレージB.V.」を新設、冷蔵倉庫会社の「ベヘールマーチャッパイ・フォン・マースダイクウェッヒB.V.」とその子会社「オランダ・インターナショナル・ウェアハウジングB.V.」をいったんその傘下に入れた上で、同年12月に3社をまとめてニチレイ・ホールディン

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