ニチレイ75年史
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第2部胎盤が主流。76※20 牛肉の加工業者で、牛胎児の血清も販売していた。※21 胎盤からの抽出成分。日本では医薬部外品の成分として使用。BSE後は豚のロングセラーとなったアセロラ商品■ヒット商品からロングセラーへ 当初は開発部が担当したアセロラ事業は、1988年8月に食品第三部を設置して独立事業とした。まだ試行錯誤の段階だったが、アセロラドリンク190g缶の発売を機に専門組織による発展を期してのことだった。 135g缶から190g缶に切り替えて飲料市場に本格参入し、東日本キヨスク株式会社(現 株式会社JR東日本リテールネット)や株式会社セブン-イレブン・ジャパンなどの量販ルートとの成約などにより、同年度の売上高は26億3,300万円と大幅な伸びを示し、89(平成元)年は60億円、翌90年に80億円と売り上げを増やした。酸味が強めの味は大量サンプリングで女性を中心にファンを増やし、機能性飲料ブームにも乗った。大容量の「テーブルボトル」、菓子の「スティックキャンディ」「グミ」とラインナップも拡充。当社のイメージキャラクターだった岡本綾子をアセロラのテレビCMに起用して大量放送したことも奏功した。機能性飲料ブームは約3年で沈静化したが、流行の移り変わりが激しい業界で、天然と健康を訴求したアセロラはロングセラーとなった。 アセロラというシーズを得意の冷凍技術で保管・輸入し、健康を訴求しつつ飲料を軸に菓子にも領域を広げ、これまで手薄だったブランドビジネスとして展開した。当社が新規ビジネスで必須とした枠組みを網羅し、アセロラは新生ニチレイのイメージを牽引した。一方で、原料調達を担っていたブラジルの担当は、増減する需要と安定供給のための購買量の調整のため、現地パッカーなどとの交渉に苦慮していた。日本側からの購入が安定するまで継続した。9. 21世紀を担う 「バイオサイエンス事業」■突破口を担った血清事業 生命に関わる領域を扱うバイオサイエンスは、新規事業の中でも注目のテーマだった。発酵を基盤とするオールドバイオ、遺伝子操作が基本のニューバイオとも当社の技術領域にはなかった。ニューバイオについて動物系と植物系の両面で取り組んだ。 動物系の事業化を担ったのは開発部医薬グループで、1987(昭和62)年に同部を離れて医薬開発室となり、91(平成3)年に診断薬事業部に発展した。突破口となったのが血清だった。細胞の増殖には培地と呼ばれる栄養素が必要で、動物細胞を培養する場合に添加するものとして血清が優れていた。特に牛胎児の血清は評価が高かったが、日本国内では入手困難だった。当社は畜産部を通じて米国・センティニアル社※20 と連携。合弁でユナイテッドバイオテクノロジカル(UBC)を設立し、1982年8月に牛胎児の血清の輸入販売を始めた。当社はUBCにバイオ事業のアンテナ的役割を期待し、販売会社とする意図もあった。だが開発費の負担などでセンティニアルと折り合わず、1988年に提携を解消。全株式を引き取って93年に血清事業を診断薬事業部に移し、UBCを休眠会社とした。■モノクローナル抗体と化粧品原料 当社は医師が診断に使う診断薬にも注力して1983年、ヒトの免疫細胞などを調べるモノクローナル抗体を開発した。モノクローナル抗体は人間のある種の細胞や抗原にだけ特異的に反応するもので、抗体を投与すれば抗原に的確に集まる。この性質を応用し、フルオレセイン・イソチオシアネート(FITC)標識抗体など国産初のシリーズ化で成功を収めた。その後、米国・バイオジェニックス社などからの輸入品を加え、保有抗体は70種に及んだ。 化粧品原料分野へも「プラセンタエキス※21 」で参入した。日焼けによるシミ・ソバカスを防止する原料として牛の胎盤を活用したもので、化粧品の有力原料として業界に定着した。

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