ニチレイ75年史
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■アセロラとの出会い 新規事業をリードしたのがアセロラである。 カリブ諸島に自生するアセロラは、当社が事業化するまでは現地住民が薬代わりに食する野生の果実だった。日本で知る人がめったにいないこの果物はレモンの約34倍(100g当たり1,700㎎※18 :日本食品標準成分表による)の天然ビタミンCを含み、雨季を除く秋から春に繰り返し実がなるスーパーフルーツである。しかし腐敗しやすく、冷凍耐性はあるが熱に弱かった。そのため商業化は難しく、ビタミン破壊を抑える加熱処理技術の開発が必要だった。 アセロラは、1975(昭和50)年発効のワシントン条約(「絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約」)による捕鯨禁止の副産物といえる。87年に商業捕鯨が正式に禁止される前から国際世論はクジラの保護を訴え、中南米で捕鯨事業を営む当社は危機感を抱いていた。82年5月に計画室と開発部に分かれた。新規事業は開発部へと受け継がれ、事業開発の枠組みとして次の6点が提示された。① 技術が入る余地が必ずある事業。② 核となるもの(固有の技術、固有のマーケットなど)が不可欠。③ 核分裂(その核を中心に事業が拡大していく)の可能性がある事業。④ ニーズやシーズ(seeds)の体系を持っていて、相乗効果が期待できる事業。⑤ 美容・健康・不老長寿など、付加価値の高い事業。⑥ 投資期間のメドは5~10年で、一つの部門や会社を形成できる事業。 開発部は次代を担う事業シーズを検討し、約10のテーマに提言を集約した。開発部が最初に手がけたのはバイオサイエンス関連で、次にアセロラ、さらにシステム物流と取り組みを本格化していった。ブラジルでエビ加工などを開始していたアマゾナス食品工業でも、捕鯨の代替事業を模索していた。その中で駐在していた社員が日系農家で栽培されていたアセロラを知り、非常に高いビタミンC含有率に着目して本社にサンプルを送った。「明日のニチレイ」構想の中で代替事業として急浮上した。原料調達はブラジルのほか、本来の原産地であるバルバドスも検討されたが、最終的にブラジルからの調達が決まった。育種や契約農家の育成のため、栽培適地の探索が行われた結果、ペトロリーナでの拠点設置が決まった。1991年に設立されたニチレイ・ブラジル農産がその後のアセロラ事業の拠点となった。 1984年7月、株式会社千疋屋総本店や株式会社新宿高野などの有名果物店23店舗で、「Fruit28C(フルーツ・ニジュウハチ・シー)※19 」ブランドのアセロラゼリー、ジャム、バーモント、フルーツソース(ケチャップ)の4品のテスト発売が始まった。Fruit28Cは株式会社紀ノ国屋や株式会社成城石井、一般果物店でも販売して根強い人気があったが、消費者が気軽に買う商品ではなかった。そのためブラジルでの原料確保のメドが立った1987年、アセロラドリンク(135g)、袋入りキャンディーをコンビニエンスストア・果物店・薬局薬店で発売。1984年度に1,800万円だった売り上げは、1987年度に3億7,000万円に急成長した。75※18 保存技術などの制約で、当初はビタミンCが1,300mg、レモンの約28倍とされていた。※19 レモンの約28倍のビタミンCに由来。アセロラの実当初のアセロラシリーズ第5章 新生ニチレイへ8. 新生ニチレイのイメージリーダー 「アセロラ」

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