ニチレイ75年史
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■ウォーターフロントに着目 1980年代半ばの好景気に沸く東京では、ウォーターフロント計画に沿った開発が進んでいた。特に中央区の隅田川沿いは、大川端リバーシティ21をはじめとして、築地市場のリニューアル、聖路加国際病院の再開発など大型プロジェクトが目白押しだった。 築地地区の発展性に着目した当社は、1987(昭和62)年、ニチレイ明石町ビル※13 の建設に着手した。その竣工が近づいた1988年7月、同地区第2弾のオフィスビルとして東銀座ビルの建設を決定した。同ビルは勝鬨橋の袂にある勝鬨橋工場を廃して建てる高層ビル(地上22階、地下3階、延べ床面積約4万m2)で、1~12階が賃貸オフィス、13~17階が本社フロア、18~22階を賃貸マンションとした複合ビルである。大型再開発プロジェクトが予定された築地市場と聖路加国際病院の間にあり、晴海通りに面して隅田川の河口付近のランドマークとなるロケーションだった。 東銀座ビルは、当初本社ビルとなる計画ではなかった。賃貸オフィスからの収益を見込んでいたが、将来性を考慮し自社オフィスとして活用するべく、途中から計画を変えて建設を進めた。 当社は1991(平成3)年2月25日、水道橋から築地に本社を移した。建物は住友不動産にサブリース方式※14 で貸し出した。国際化時代、情報化時代を迎え、東銀座ビルのインフラへの期待は大きく、FCプランを推進する上で大切な先行投資として考えていた。第2部産に一括賃貸。が保証される。たもとしょっかいけん74※13 明石町工場の跡地に建てた地上18階、地下2階の賃貸オフィスビル。三井不動※14 不動産会社が物件を一括賃借して入居者に転貸する方式。貸主は一定の家賃ニチレイ東銀座ビル※15 ロボット等を活用し、生産工程の自動化を図る。※16 五味(甘味・塩味・酸味・苦味・うま味)を識別できるパネラーが官能検査で評価する手法。※17 株式会社日本市場研究社を設立、マーケットの情報収集・分析を試行したが、1993年に同社を解散。6. 本社移転と機構改革7. 新規事業への取り組み~萌芽~■本社の機構改革を実施 FCプログラム始動に当たっては、新本社ビルへの移転に加え、1991年4月に機構改革を行った。そのポイントは、①事業構造にマッチしたマネジメントの構築、②技術力強化、③加工食品事業の経営基盤強化とグローバル化推進、④医薬関連事業の方向明確化、の4つで、低温物流、加工食品、食料の3事業本部および診断薬事業部を設置した(6月には不動産事業本部も設置)。 技術力の強化で重点を置いたのは加工食品で、食品開発研究所(食開研)、味覚評価室を設置した。食品の研究開発は、「基本を研究する総合研究所と分析センター」「食品開発研究所」「生産部門での開発」と3層構造で進め、食開研と味覚評価室は商品企画室と三位一体で2~3年の期間で大型商品の開発を担った。食開研は食品のFA(Factory Automation※15 )、食品素材や保存技術の開発などにも取り組んだ。味覚評価室は、味や香りなどの味覚を客観評価※16 して設計することを役割とした。 また、診断薬事業部には診断薬開発センターを新設。従来の研究所は総合研究所として、植物育種や治療薬などバイオテクノロジー関連の研究にも取り組むことにした。 さらには国内部門と海外部門の一体化を図ったのも大きな改正点だった。従来、海外部は国内部門から独立していたが、1990年に水産と畜産の海外事業を国内部門に移管し、1991年に食品の海外事業も国内部門に移して内外の一体化を実現した。■開発部による事業開発 好況期に日本企業の多くは事業の多角化を目指したが、当社も同様で、FCプランで21世紀における事業ドメインに新規事業を明示して注力していた。バイオ関連事業と、今後の成長が見込まれる情報処理・分析・調査などの分野※17 だった。当社は主力事業に経営資源の多くを投入しながら、新たな成長の芽も育てた。 一方、「明日のニチレイ」キャンペーンの事務局を務めた総合企画室は1981(昭和56)年4月に総合企画部に昇格、翌

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